2006年04月02日 12時07分

うちは無限公司なんで今からちょっと株買ってきます。って今日は日曜ですか。株売ってませんか。そうですか。

好きなもの、嫌いなもの2006年04月05日 23時54分

昨日たまたま見つけた「お豆腐狂言 茂山家」のサイトに役者紹介のページがあった。その中の茂山 千之丞という人(一度 TV で拝見したことがあるように思う)は「好きなもの」、「嫌いなもの」にそれぞれ次のように書いてあった(一部省略)。

好きな物: 揚たての天婦羅
嫌いな物: 冷えた天婦羅

それを読んだとき、この人は根っからの狂言師なのだと思った。ことばの間合いというか音が限りなく狂言になっているだけでなく、そこはかとなく狂言のユーモアが漂っていることば選び。本当に好きで嫌いなものかもしれないが、だとすると生まれ付いての狂言師に間違いはない。私も自己紹介でこの程度のことが書けるようになりたいとつくづく思った。数十年早いような気がするが。

二往復2006年04月07日 23時03分

自宅と職場を二往復した。原因はスパムだ。14 万件も配送できずにいるので昨夜も三時まで自宅であれこれして目途がついたので寝たら、パソコンまで一緒に寝ていたので、セッションが切れて作業が途中で終っていた。ssh のセッションが切れるのは想定していたが、勝手にスリープするなよ。設定したのは自分の筈だが。

通常ならスパムあるいはスパムが不達で騙られたアドレスに戻されてきたらそれを特定のメールボックスなり、闇に葬るなり適当な処置が行われて今回のようなケースにはならないと思うが、特殊な事情でリモート配送できない大量のスパムが正常な配送を妨害していた。一種の DOS 攻撃である。

以前から何となく勘付いてはいたが、こんな問題になることまでは考えていなかったので驚いた。さて、どう対策するかな。

花見2006年04月09日 21時41分

土曜、日曜と二日続けて花見。土曜日は自宅の客間で、日曜は近所の友人宅で。自宅の客間からは一応桜が見えるが、友人宅からは見えない。で、どうするかというと友人数人と子供が寄って飲み食いしてから近所の山に花見に出かける。行っても暫く眺めてすぐに戻ってくるので一般的な花見とはちがって何していることやらという感じがしないでもない。しかし花の下にいたって飲み食いしてカラオケする程度で花なんか単なる背景だからどっちが普通でどっちが普通でないということもないような気がする。

話は変るが自分からマンガを読むことは殆どない。ところが日曜の友人らはマンガを読む人たちが多い。で、花見に来てマンガを読み耽っていたりする。それは別に構わないが個人的には暇である。仕方がないのでマンガを手にとってみるが、いやはや懐かしいのだ。マンガは今でも写植を手貼りしているようで今では殆ど見ることのなくなった写研の書体がたくさん見られた。以前からマンガには書体見本帖のようにいろんな書体が使われていることは知っていたが、久しぶりにそれを思い出させてもらった。
といってマンガを読もうという気にならないのは何とも陳腐な展開で読もうという気にすらならないからだった。

親と理不尽2006年04月13日 23時57分

同僚が職場の所感で次のようなことを言っていた。

二歳の自分の子の前では家内のことを「ママ」と呼ぶようにしている。ところが咄嗟のときなど、うっかりこう呼んでしまうそうだ。

「妙子(仮名)」

普段はその子は母のことを「ママ」と呼んでいるが、何かの拍子に「妙子(仮名)」と呼ぶことがあるらしい。呼ぶと子は母からこっぴどく叱られ、亭主はその様子を面白がって眺めているということだった。

無関係の大人からすればちょっとした笑い話だし、事実その話を聞いて私を含めた多くの人は笑っていた。ところがここには大人の論理ではわかりづらいことが潜んでいるように思える。それは「笑う」という行為からも理解しがたいことであることを知ることができる。
父が咄嗟のときに考える前に口を吐いて「妙子(仮名)」と呼んでいることは大人であれば理解できる。それは親が子の前では相手のことを「パパ」「ママ」と呼ぶという規則を設けていることが理解できるからだし、子が親の名前を呼び捨てにするという常識を持ち合せていないからだ。
ところが、子はそのような規則や常識があることをまだ知らないし、もしかすると「妙子(仮名)」が何を意味しているかすら理解していない可能性もある。それが母の名前であるということすらわかっていないことだって十分あり得ることだ。
あるいは「ママ」のことを咄嗟の文脈では「妙子(仮名)」と呼ぶものなのだと考えても同じ常識を共有していない状態では不思議なことでもないだろう。実際父は咄嗟のときにしか母を「妙子(仮名)」と呼んでいないからだ。さらに相手は二歳である。それだけの知恵を働かせられるのであれば賢明な子であると褒めてやってもよいくらいだ。そう考えれば「妙子(仮名)」には咄嗟のときに母に咄嗟であることを訴えることも同時に可能になる便利な呼び方という理解と学習をしても不都合はない。不都合があるとすれば「妙子(仮名)」と呼ぶと自分が咄嗟であってもどういうわけかこっぴどく叱られるということだけだ。子はどういう論理の飛躍、欠如が起っているのか理解しえないまま「理不尽」という概念を学習しているのかもしれない。
しかし母は父をどう呼んでいるのだろうか。子の前で「パパ」と呼んでいることは十分推測できるが、子の前でない場合に次のように呼んでおり、それが咄嗟のときに口から出てしまったらどうだ。

「ポン太」

そこには牧歌的であっても咄嗟であるという印象は微塵もない。

英語と日本人2006年04月16日 09時57分

小学校の英語を必修にするという方針を中央教育審議会が出したとニュースになっている。小学校の教師の中には自分の下手な発音では教えられないというようなことを心配している者もいるらしい。気持はわからないでもないし、綺麗な発音に憧れるのも理解できる。ただ発音は綺麗であれば「なおよろしい」という程度のもので、それ以上ではない。そもそも綺麗な発音といったところで英国発音と米国発音と豪州発音と、それこそ挙げていけばきりがないくらい「綺麗な発音」は存在する。どうせ国内一般の想定は米国発音なのだろうが、ヨーロッパで米国発音する者は田舎者呼ばわりされるという話を聞いたことがある。さらに言えば合衆国でも綺麗な発音で話している者はそんなに多いわけではない。移民であればなおさらだし、仕事で合衆国に行く人も綺麗な発音をする人もいればそうでない人もいる。それでも誰も自分の発音が下手だからなどという人はいないし、上手いからと自慢する者もいない。
日本では外国人の日本語がうまくても褒めるが、発音が綺麗でも褒める。移民国家でない日本では周囲と違う発音をする者が少い。だから目立つわけだし、それで相手を選別、さらには差別するという構図がある。ところが合衆国はそもそもが移民が占拠してできたような国だから誰一人として周囲と同じ発音をする者がいない。だから発音に関して自慢する者も劣等感を持つ者もいない。それより重要なのは何が話せるのかということである。

英語が話せない人には経験がないのでわからないようだが、英語が話せると何が要求されるか知っている日本人は意外に多くない。実は英語の発音以上に外国人から重視されていることがあるのだが、教育に関する議論の場でそういうことを心配している人があまりいない(ように見える)。しかし外国人とコミュニケイションを始めるとすぐにわかるが自分がどれだけそのことについて無知であるということに愕然とすることになる。日本人のアイデンティティだ。英語を喋りたがる大抵の人は合衆国かぶれなので日本について知っている者は多くない。だが相手は日本についていろんなことを質問してくる。先進国であることを自慢しても相手はそんなことは知っているとばかりに興味を示さないし、品質の高い製品は made in Japan であることくらい誰でも知っているからそんなことに関心はない。どこでそれを安く入手できるかについては関心があるようだが。
世界中どこに行っても今なら子供であればアニメの話に食いついてくるのでその知識と情報だけで人気者になれるが、大人だとそうはいかない。要求されていることはただ一つ。

「お国自慢」

広島がどうの、大阪がこうのという話ではない。それも必要だろうが日本という国の自慢だ。歴史と文化と言い換えても構わない。いくら英語が話せるようになってもこれを喋ることができなければ基本的に相手にされない。
そういう意味で日本人にはアイデンティティが存在しない。結局相手が求めているのは日本という国に対する知識である。単なる関心である場合もあるだろうが、それを知ることによって相手のものの考え方や戦略が見えてくるし、いい方にも悪い方にも日本人である相手に対処する方法がわかってくるのだ。それが自分のことばで説明できないやつはいくら TOEIC が 900 点あろうが外国人からはその日本人は馬鹿にしか見えないばかりか、あまり英語が話せるようにも思ってもらえない。

今の教育にはその視点が完全に欠落しているし、それができない者に英語ばかり教えたところで発音が綺麗で英語が使えるというだけという役立たずにしてしまうだけだ。
間違えばナショナリスト養成ととられかねない話であるから教育の場では極力避けられているのだと思うし、自分自身ナショナリストを養成してくれと思っているわけでもない。しかし、議論を避けたいという理由だけでこの問題に触れないでいればこういう結果を齎すことになることを理解しておいてもらう必要はある。日本と中国の歴史問題についてもアジア人の関心は高い。教育の現場で触れずにすませることはできてもそれについて考えさせる機会を与えなければ困ることになるのは自分たちの子供だ。日本人のバックボーンである歴史と文化を暗記ではなく血や肉になるように教育しなければ英語だけできても外国の人からは無能な人間という評価しか与えられないのだ。そういう意味では英語どころか歴史や文化の教育もできているとは言いがたい。欧米のいいところを採り入れることは必要だが、暗記教育と欧米偏重だけしかやらなければ日本の子供には国際人どころか日本人にすらなれないという悲劇が待っている。

バルコニーで焼肉2006年04月30日 16時38分

先日の花見はわが家の居心地がいいのか好評だったので、気をよくして 3F のバルコニーで焼肉をすることにした。大体がアウトドア野郎ではないし、料理もしないので勝手もわからないのだが、材料など準備する。焜炉などいくつかは借物。

家のものを入れて10人以上の大人数でどうなることかと思ったが、天気もよく、それほど暑くもならずいい具合だった。このバルコニーでは一年前にも友人らと一度やったことがあり、連休行事として恒例化しそうな感じである。それどころか「ライトが付いているのなら夏は夜だな」などと勝手に話が進んでしまっている。「屋外用の蚊取線香もあるから大丈夫」というやつもいる。おいおい他人の家だぞ。
バルコニーが終れば居間に下りてきて抹茶を立てる者、腕相撲をする者、ピアノを弾く者などめいめい勝手なことをしている。

新築前の家は狭い部屋ばかりで人を呼ぶこともできず、バルコニーも下から丸見えであまりわいわいできなかった。そもそも前の家のバルコニーではこういうことをするというような気分ではなくどちらかというと気恥かしい感じがするので、自分の家に人を呼んで何かするということがなかった。一番の問題は玄関だ。10人も来れば玄関が靴で溢れ、外にまで並べなければならないくらい狭かった。

西洋の人は普通に自宅に人を招いてパーティをするようだが、先日の花見と今回の焼肉で、家が人で賑やかというのもなかなかいいものだということがわかった。