発表会2014年09月27日 11時00分

鼓を習い始めて一年と一箇月が過ぎた。

幸流(こうりゅう)という小鼓の流派の先生について能の鼓を習っている。能を選んだのには理由はない。というか鼓といえば能しか思いつかなかった。
後から知ったが実際には歌舞伎や踊り、少ないが長唄なんかでも鼓を使うらしい。それらをやりたければ、それらの囃子をやっている先生に教わらなければならない。私は取立ててやりたいものがあったわけではなく、鼓をきちんと鳴らしたいだけだったので、何でもいいのだった。ただ、習っていて思ったのは私にとっては能でよかったのではないかということだ。

鼓は難しい楽器だ。打楽器で言えばインドのタブラもかなり難しいが、音を鳴らすという意味ではタブラに劣らないであろう。ピアノのように触ったことがない人でもすぐに音が出せるというような代物ではない。私も最初やり始めて鳴らないことを知った。

まず、鼓がきちんと組めていなければ音は出ない。鼓は自分で組み上げる楽器だということを知らない人が殆どだが、使うときに自分で組むのが基本である。と言っても初心者がいきなりそんなことはできないので、普通そういうことは習い始めて何年もしてから教わることになるが。
きちんと組めていたとしても皮に適度な湿り気がなければ鳴らない。そんな打楽器は世界中探しても鼓くらいしかないのではないか。実際私も鼓を買うときまで知らなかったが、音を出すためにかなり重要なことである。プロも舞台で常に湿り具合を気にしている。

楽器の条件が揃えば次は奏者の問題になる。打てば鳴るなどと思ってはいけない。先生の言うように打っても最初は音が出ない。鳴っても「パス」とか「ペチ」とかいう音とは言えない情けない音しか出てこない。強く打てば鳴るというものでもないので、ガシガシ打っても鳴ってはくれない。
TV では効果音で頻繁に鼓の音が聞かれるが、あんな音は「十年早い」と言っておく。

音を綺麗に鳴らすのに重要なのは楽器を支えている左手の加減である。実は左手は楽器を支えているのではなく、鳴らすために右手にタイミングを合せて楽器を操作している。

いくら文字で詳細に書いてもわからないし、流派によって組み方、打ち方などいろんなものが細かく違うらしいので、ここでは解説しない。

私はというと、二年生としてはまあまあ鳴らせているのではないか。先生について習い始めたときに少しは鳴っているつもりだったが、打ち方がまるで駄目だったようで悉く修正され、再び超初心者の状態に逆戻りした。少なくともそういう恥かしい状態ではないと本人は思っている。

これまで八曲習って、今は九曲目の「海士」の「玉の段」というのを習っている。ちょっと自慢すると一年でこのペースというのは早いらしい。で、この間の稽古のときに来年の発表会に出ないかと先生に言われた。出るのはいいのだが、どの曲をやればいいのかわからない。先生はどうせなら長めの曲がいいだろうとおっしゃる。今の曲も含めてこれからやる三曲が比較的長いらしいが、次の二曲がどんなものかわからないので、自分では判断できない。面白いのがいいと希望を言うと「なら『海士』でしょう」ということで習っている曲をやることに決った。早く決めないと別のお弟子さんに取られてしまうらしい。同じ曲が被るのが好ましくないのはパーティなんかでドレスが被って恥しいのと同じなのだろう。
難点を言うと、この曲が三曲の中で一番難しいらしいということだ。困った話だが、面白くないものを練習し続けるのも厭だし、いやいや練習していても身が入らないに違いないので仕方がない。何でも最初の発表会で「玉の段」をやる人はそんなにいないらしい。自慢していいのだろうか。というようなことで、他のお弟子さんも含めて前から発表会の話は出ていたので覚悟はある程度していたが、いよいよ具体化してきた。「間違ってもいい」と先生はおっしゃるが、ちょいミス程度ならまだしも、グダグダになることだけは避けたいものだ。

話は変るが、鼓は恐しい楽器である、と常常思っている。打つ人の性格がそのまま音に出てくるような気がしてならないからだ。自前の鼓を持参して稽古してもらうお弟子さんもいるが、稽古場では大抵、先生の鼓を使って稽古する。ほぼ一丁の鼓にも拘らず出てくる音が千差万別なのである。条件に違いがあるとすれば、打ち手以外にない。ということは打ち手の性格がそのまま出ていると考えて不思議はない。なので自分がどんな音を鳴らしているのかが気になって仕方がない。復習のために自分の稽古を録音してはいるが、それでは客観的に判断できないのでよくわからない。

そう思ってきたが、先日先生とお弟子さん十人ほどで飲みに行く機会があった。何からそんな話になったのかはわからないが、そのときに先生がこんな話をされた。玄人の修業を始めるときにお師匠からこう言われたそうだ。

「鼓は打つ人の人生が全部音に出る」

ますます恐しいのだった。

TOEIC2013年12月11日 22時00分

16年ぶりに TOEIC を受験したのだった。久しぶりに受験しようと思った直接の理由を書き出すと恐ろしく長くなるので、ここでは鼓とだけ書いておく。何がどう繋がるのかわからないとは思うが。

当時は一年間で三回受験した。スコアが殆ど変化しないのでそれっきりやめてしまった。会社から ¥5,000 の資格手当を貰っていたが、あるときからスコアの有効期間が二年間なのでそれに応じて期限が切られ、貰えなくなった。そんなに能力が上下することはない筈だから受ければ同じくらいのスコアは取れるだろう。受けてもよかったのだが、面倒でそれっきりにしていた。
そのうち試験の要領が変り、リスニング問題ではアメリカンネイティブ以外の話者なども登場するようになり、大阪では年四回ほどしかなかった試験が今では十回もやっている。

当時は試験対策などというものは一切やらず、ただ会場に行って受けるだけだった。TOEIC については実力がわかると思っていたし、ランクで示される自分の実力を見る限りではそれほど外れているようにも思わなかったので、対策勉強しなければ実力が測定できるものだと思っていた。どうやらそれは間違いらしく、受験者の背比べらしいということを最近知った。
というようなこともあるし、今では TOEIC オタクみたいな連中がわんさかいて、満点取るのに血道を上げているという話も聞いたりしている。900点取ってもまともに英語が使えないようなのもいるらしいではないか。
高い受験料を払って実力がわからないのでは馬鹿らしいので気乗りがしないが、会社の英語に関する資格手当は TOEIC だけになってしまったので、手当を貰うには TOEIC を受けるしかない。

で、受験することにした。以前から受けて手当を貰ってもいいなとは考えていたので、数年前に対策本だけは購入していた。買ったまま気が向かないので捨て置いたのだが、今回漸く出番になったというわけだ。今回の目標は 735点以上である。この点数を超えれば手当が一挙に ¥10,000 になるからだ。ある意味ではいい会社である。

というようなわけで受験を決めたのが九月である。最初に悩んだのはいつ受けるかということだった。対策勉強するにも時間は必要だ。しかし、わが家の事情で十二月なんかに受けるわけにもいかず、といって年明けというのも先が長いし、正月が試験前というのも大学受験でもないのに落ち着かず、そんな正月は厭である。というわけで決めた直後で一番早く受験できる先月の試験を受けた。

最初はその購入した対策本をやっていた。しばらくした頃に以前同じ職場で仕事をしていた翻訳者から突然メールがやってきた。返信に TOEIC を受験することを書いたらいろいろアドバイスしてくれた。対策本の対策とともに彼女のアドバイスにも従い、週に一度は模擬試験をすることにした。当初は一度しか模擬試験をやるつもりではなかったのだが、追加で問題集を買ってせっせとやった。本来は英語の上達が重要なのだが、今回だけはスコア(引いては手当)が目標なので英語の勉強は殆どしていない。何でも対策だけで百点上げることは軽いらしいし、問題によっては時間的理由で「問題を読むな」といわれる種類の設問もあり、こうなると英語の能力測定などもうどこかに行ってしまっている。

模擬試験をやっては自己採点して、一喜一憂していた。ある問題集のスコア換算は比較的範囲が狭いが、公式問題集はリスニングとリーディングで上下 200点くらいの大雑把なスコアしか出てこない。試験の仕組から当然のようにも思えるが、それではこっちが困ってしまう。
上のスコアだと ¥10,000 の手当は間違いないが、下だと ¥5,000 ということになる。公式でない方の試験のスコアだと 900点近く行くこともあり、そんなに得点すると ¥15,000 貰えることになる。欲張って駄目なら悲しいので、そこは強欲にならない。

ということで試験までの二箇月ほど、週に一度は昼から部屋に籠って模擬試験をやっていた。リスニングより厄介なのはリーディングだ。リスニングは放っておいても勝手に進んでいくが、リーディングは自分で時間配分しなければならないので解答ばかりに専念するわけにもいかず、焦ることになる。実際、時間を気にせずやると両方とも同じようなスコアになるが、本番同様にやるとリスニングの方がスコアが高い。
最初のうちは時間が足りずにやり残す問題があった。対策本のアドバイスと自分なりの経験から最終的に part 5, part 7, part 6 の順に解くことでとりあえずやり残しはなくなったし、マーク箇所を間違えることもなくなった。
対策本もいい加減である。アドバイスによっては「それを聞き取るためにはそれなりの実力がいるやろ」というようなものもあって、無責任だ。そういう意味では単純に対策だけでいいスコアになることはないし、いくらかはまっとうな試験でもあるのだろう。

試験当日、会場に行くとすでに校舎前に多数の受験者が本やら問題集など拡げていた。多少焦るが、何度も言うように今回は英語の勉強を殆どしていないので(そこは自分の実力頼み)慌てたところでできることは何もない。ベンチに坐って持参したチョコレートを食べる。

会場の音声チェックではややキンキンした特性が気になった。もしかすると高音が聞き取りにくい高齢者に配慮しているのかもしれないと考えて諦めることにしたが、それでも多少神経に触る。実際に試験が始まってしまえばそんなことを気にしている余裕はあまりない。
会場はカーテンが閉じられ外の様子がわからない。そのときは外光の影響を考えたが、今思えばカンニングやら問題漏洩対策という意味合いもあるのだろう。

今週の月曜日、オンラインで結果が確認できるようになった。早速見ると 835点だった。後 30点でランク A という惜しい結果だったが、それはすでに書いたように期待していない。それより目標の 735点がクリアできたので一安心という方が大きい。スコアは気にしないと思ったりもするが、思ったよりいいスコアだとやはり嬉しいものである。

以前は 800点を目標にしていたが、あっさり達成してしまった。予想以上のスコアでもあり、一時は目標にしていたスコアでもあるので自慢したくもなるのだが、本来の目標はどうやらもっと先にあるようだ。なので、この程度のスコアで喜んでいてはいけないのだろう。

因みに目標は、自分の仕事を英語まで含めて翻訳者に頼らず完結することである。

熱中症2013年08月24日 11時30分

今さらだが熱中症の話をする。

今年は暑くて堪らない。大阪は猛暑日が半月以上続いているようだ。
子供の頃にも 36℃の日を経験した記憶がある。それは一日限りだった。炬燵の天板が暖かかったのを今でも憶えている。ただ、いくら暑くても 34℃止りだったし、最高気温 33℃というのが大阪の普通の夏だった。朝夕は涼しかった。なので宿題や勉強は「涼しい朝のうちにしろ」とよく言われたものだ。実際に当時の午前中の温度変化まではわからないが、熱帯夜と言っても最低気温は 25℃、26℃くらいではなかったか。

今では最高気温 36℃以上の日が普通である。朝は 6:30前に家を出るが、サイクルメータの気温はすでに 30℃に張り付き、ほぼ変化することなく職場まで続く。体感する温度はずっと同じ温度ではなく、若干涼しく感じるところもあるし、風がひんやりして少し気持ちのいいところもある。それでも全行程を通して蒸し暑いことに変りはない。

毎日こんな調子だから、連日のようにニュースで「どこそこが40℃を超えた」とか言っているし、天気予報でも馬鹿のように「水分と塩分補給を忘れずに」などと言っている。こっちが聞き飽きるくらいだ。

水分補給も塩分補給も大切だが、最近のメディアはどうも勘違いしているような気がしてならない。というか馬鹿の一つ覚えのように「水分補給」を口にする。もしかしたら本当に馬鹿か。
熱中症を防ぐには、まず体温を下げる、体内の体温を逃がすということをしなければならない。これをしないことには何も始まらない。体温を下げないまま水分を補給したところでさほど効果はない。

12日、久しぶりにポタリングというかサイクリングというか、舞子から播磨新宮まで走ってきた。舞子を出発したのは午前 9時前だったが、すでに暑かった。高高 60 km 程度だったが、暑い中でもあるし、寄り道やら休憩しつつ 5時間ほどかかった。ロガーの記録を後で見ると最高気温 40℃だった。途中、サイクルメータが熱暴走して記録が一部正しく行えていないので、サイクルメータの記録は 73 km ほどになっているが、10 km も寄り道していない。おそらく熱暴走した頃が 40℃だったのだろう。古い製品なので仕方ないが、今後日本で売るサイクルメータは 40℃ごときで暴走するようでは使えないので各メーカはインダストリアルグレードの CPU を使うようにしてもらいたい。

熱中症の前触れは何度も経験したが、熱中症にはなっていない。誰でも私と同じがどうかはわからないが、私の場合顔が火照ってくると熱中症の危険信号だ(と思っている)。休憩して水で冷やすか、涼しい場所に立ち寄って体温を下げる。これで熱中症を防いだ。
当然、スポーツドリンクで水分補給は欠かさず頻繁に行う。

というようなわけで、今週は 3日自転車通勤した。死にそうだった。原因は熱中症ではなく、脱水だろう。熱中症は気配すらないが、汗の量が半端ではない。

現在の医学的知見だと暑いときには運動せずに日陰に入れ(高校野球はいいのか)、水分を十分補給しろ、汗で失われる塩分も補給しろということらしい。確かに体に理想的な環境という意味ではそうだろう。
しかし、人間の体は工業製品ではない。工業製品のように規格から外れたら動作保証できませんというようなものではなく、鍛えればある程度対応できるようにできている。暑い時期にちょっとは運動して熱中症の感覚を掴むのも悪くはないし、鍛えれば家の中で熱中症になるというような情けないことにはならない。もちろん健康なことが前提である。持病があれば止めた方がいいし、歳を取っているのであれば、もっと涼しい時期から少しづつ始めて室内で熱中症になるのを防ぐくらいに留めておくくらいがいいように思う。

熱中症は突然なるわけではなく、グラデーションのように熱中症が酷くなっていく。閾値のようなものがあると考えていたらそれは間違っている。
熱中症の入口だけは少なくとも健康な人なら毎年一度みんな経験しておくべきだと思っている。どういう状態になれば熱中症になりそうかがわかるからだ。本当はそういう環境に慣れれば熱中症の耐性ができるし、そういう環境で軽い運動をすれば汗をかける体になれるので熱中症なんかでヘタらないためにもいいのだが、普段運動しない人はなかなかしたがらないだろう。

今年がたまたま暑いだけならいいが、毎夏こんな気候が続いても不思議はない。嬉しくはないけれども熱中症にならないためにもそういうことをして備えておくのも悪くはないと思う。満員電車が走っているときに雷で停電になり電車が動かなくなることだってある。用心するに越したことはない。

共立電子カレンダー2012年12月30日 09時45分

しばらく前に日本橋の共立電子に買い物に行った。12月だったので買い物をしたらカレンダーをくれた。机に置いたりするタイプでちょっとした予定が書き込める玉カレンダー(数字だけのカレンダー)だ。

玉の横に記念日やら節気なんかがある。そこに「ウィキペディアの日」(1月15日)とか「電子メールの日」(1月23日)などあるのは何となく共立らしい。ところが「禁酒の日」やらいろんな人の命日が記載されているのがしっくりこない。ガリレオとかアインシュタインのように科学技術関連の人の命日なら理解できなくもないが、法然だったり啄木だったりすると何か居心地がよくない。それよりも命日だらけで何となく気が滅入ったりもする。
旧暦 1日やら上弦、下弦なんていうものも記載されていたりして、方向が見えない。

ただまあ、知らないことがいろいろわかって面白いことは間違いない。シーラカンスの日もあるし。

カレンダーと言えば、例によって来年のカレンダーを制作した。今回は春に行った香港の写真を使用した。ついでに香港の祝日も入れてみた。祝日は結構面倒だったりする。日本のだけでも毎年大変だが、香港のも入れたので手間倍増だ。こっちのは入れるものが祝日だけだが、共立のはいろんなものが入っているので取捨選択の段階で大変だろう。記念日など無数にあるので、全部入れていたら命日の出る幕はないし、死んだ偉人もそれこそ無数なので、そっちばかりやっていたら記念日どころか節気を入れる余裕もないだろう。大体記念日にしても命日にしてもウェブで調べられるようになって簡単とはいえ、調べるのが大変だ。さらにどういう匙加減で入れていくのか決めなければならず、これも手間のかかる作業である。
共立のカレンダーは前月と翌月のカレンダーが小さく入っているので、これも予想以上に大変な作業だ。
カレンダーを使う人は拘りがなければ大抵無料で入手できるし、同じような数字の配列が表示されているだけなので、ちょいちょいとやればすぐできると考えているかもしれない。それはとんでもない誤解である。力の入っているカレンダーだと一年以上かけて制作しているものもあるらしいし、有名な企業が制作する美しいものになると印刷も特殊なので厖大な手間と作業が必要だ。何より数字主体なので間違いや誤植が混入しやすく、見つけにくいというのも苦労の要因である。

自家製カレンダーはいつものように無料でダウンロードできるのでよかったら http://www.zeny.org/calendar/ からダウンロードしてください。

年賀状ソフト2012年12月02日 15時00分

年賀状ソフトを購入したのであった。

私自身は一生この手のソフトを買うことはないと思っていた。購入に至った理由はいくつかある。

・宛名も印刷したい
これは私の要望ではなく家内の希望である。私は宛名を印刷することは厭なのだ。というのも裏を印刷し、宛名を印刷すれば、それは最早ダイレクトメールと同等だと思うからだ。裏に独自の趣向を凝らしたりしてオリジナリティがあればまだいいが、大抵の年賀状は出来合のデザインをそのまま使用していて、差出人が違っていてもわからないという程度のものでしかない。実際、同じ年賀状を別の二人から受け取ったことがある。私が差し出す年賀状の枚数が少ないということもあるのだが、私の年賀状の宛名は下手であっても手書きで通しているし、今後もそのつもりである。決してパソコンで宛名の印刷ができないということではない。

・住所録を活用したい
話が重複するが、わが家にも表計算ソフトで作成した住所録は随分前からあることはあった。ただ、上記の通りこれを年賀状の宛名印刷に活用したことはない。ところが家内が宛名を印刷したいということもあるし、さらにパソコンが使えるようになりたいということで家内が現在 Excel を習いに行っている。これで住所録が扱えるようになったので、家内の住所録も以前からある住所録に追加してパソコンで印刷したいというのが理由である。当初、私は Excel で作成した住所録を LibreOffice の Writer で差込印刷しようと考えていた。OpenOffice 用のテンプレートを適当にダウンロードして、これをすでにある住所録と組合せて使おうとすると、データの加工が必要になる。例えば住所の番地を漢字に変えようとするとマクロでないと駄目らしい。
話は逸れるが、家内はほぼ完全なパソコン初心者だ。なので、パソコン教室で習う Excel のバージョンと家のバージョンが違えば、それだけで家で復習できない。これまで家にあるのは 2000 だった。Excel なんか買う予定ではなかったが、止むを得ず購入したので Excel だけ 2010 がある。Office で買うと倍ほど費用がかかるし、Word は家内の仕事でも業務上使うことはないだろうと思うので、Excel 単品で購入した。
さらに話が逸れるが、パソコン教室ではワープロの何を教えるのか嫁に訊いたら、年賀状だのポスターだの、さして実用的とも思えないようなことしか教えないらしい。Word と Excel どっちを習えばいいかアドバイスを求められたときに私は迷わず Word など習う必要なしと力説した。家庭でワープロを使う状況というのが私には思い浮かばない。亭主が会社の仕事を持ち帰るというのを別にすれば、私的なことでワープロを何に使うだろうか。使う必要ができたとしても、わざわざ教室で習う必要もないし、Excel に馴染めば本を買って独習しても適当に使えるようになる。年賀状のために Word を買うような無駄なことはしたくなかったという理由も若干あるが、習っても仕方のないものを教わっても無駄なので、チケットがなくなるところまで Excel を習えと言いつけてある。

・フォントが欲しい
年賀状ソフトを購入した直接の動機がこれだった。

たまたま家内が買ってきた年賀状デザイン集に筆まめのベーシック版というのが附録で入っていた。住所録の加工にマクロをいじり始めていたときにベーシック版でできることを調べてみたら、宛名の印刷もできるらしいことがわかった。実際やってみると Excel の住所録を取り込んで差込印刷できるようだ。当初は無料のこれで行くつもりだった。ところが、文字の大きさを自分では制御できないことがわかってやや不満に思っていた。
それとは別に、宛名を印刷するのに適当なフォントがないのも以前から気になっていた。うちには明朝体とゴシック体くらいしかフォントがない。自分の知人などに出す年賀状はデザインの都合もあってそれでいいが、親戚などに出すのはどうも適当ではない。フォントが欲しくて調べてみたら結構な値段がする。これではフォントは買えない。独身なら買っていただろうが。ところが年賀状ソフトにはフォントが附いてくることに気が付いた。価格を調べるとベーシック版ならアップグレードで買えるらしく、これだと ¥3,000 強で大量のフォントに年賀状ソフトまで附いてくる(うちの場合、話が逆ではない)。

というような経緯で年賀状ソフトを買うことになった。昔、年賀状ソフトは、完成されている、というようなことをどこかで読んだ。実際に使ってみると使い勝手がいいとは決して言えない。もっと何とかなるだろうという部分は多い。目的がはっきりしているし、お手軽に年賀状を作るという用途にはまあ簡単なのだろう。だが、少し細かいことをしようとすると、あれこれ不便なのである。お手軽設定の自由さを細かい設定でも使えるといいのだが、デザインに拘りのないユーザを相手にした製品なのだろう。

フォントは確かに大量にある。価格と品質を天秤にかけると文句は言えない。とはいえ、フォントの品質はよくない。欧文フォントと数字フォントはどうしようもないのでインストール直後破棄した。見るからに使えない一部の和文フォントも同時に捨てた。字遊工房の書体くらいの品質になると吃驚するような価格になって、年にどれほど使うのかという個人用途には合わない(それでも欲しいが)。しかし文字は美しい。
写研が OpenType フォントの販売に参入するという話があって、欲しい書体がいくつかある。一番欲しいのは曽蘭隷書だ。隷書体もいろいろ出回っているが、どれもこれも曽蘭隷書の美しさには遥か遠く及ばない。今回購入した筆まめにも隷書体はある。実際に使用してみるとどうにも使えない文字があったりして腹立たしい。
写植の時代と較べるとパソコンになって書体の品質が恐ろしいほど落ちた。いいフォントもない訳ではないが、安価に入手できるということもあるからか、どうしようもないフォントがプロの仕事にも普通に使われていて嘆かわしい。それを言うと素人の組版みたいな書籍も多くなって、本屋で本を探しても組版で買う気の失せるものが多くて閉口させられる。ワープロ気分で組版しているような本が増殖している。そんなどうしようもない組版を見ると内容を評価する前に買う気になれない。売れないのは工程の省力化と経費の削減によって、ワープロ出力を製版したようなどうにもならないものが多いのも一因ではないかという気がしている。まさか Word で組版して InDesign に流し込み、Word の設定そのままで版下にしているのではないだろうな。

年賀状からとんでもない方向に話が行ってしまったのであった。

体重の定常状態2012年11月04日 22時40分

依然としてダイエットが話題である。
TV では「xx kg のダイエットに成功した」とかタレントが一定期間でダイエットを実践するというようなのを頻繁に目にする。
ということで思うのであった。

ダイエットは目標体重になれば成功したことになるのだろうか。

個人的にはこれがよくわからないのだった。随分前に 68 kg になったという話をしたことがある。今は少し痩せて 70 kg 前後だ。

すると「話が合わないではないか」と思う人が出てくるに違いない。あるいは「ダイエットに失敗した」と思われたりするのだろう。

基本的にはダイエットをしようとして特に実施していることはない。ただ、出勤する日は昼食後に食べていた菓子を止めたが、それがダイエットに該当するかというと微妙ではある。

よく読んでいる人は飽きるほど読まされているだろうが、週に 3日くらいは往復 60 km を自転車で走っているので、それで太る心配は「基本的には」あまりない。

ところが、それでも体重が増加し始めるわけだ。一時期は 74 kg くらいまでいった。暴飲暴食に明け暮れたというようなことがあるわけでもないのにである。高千穂遙は二日に一度 65 km を走って体を絞っているとかいうが、これが私にはどうも信じられない。以前「毎日 60 km 乗っているから何を食べても太らない」というようなことを本人の文章か、他人が書いたもので読んだ記憶がある。それで今の職場まで自転車通勤したら驚くほど痩せるだろうと期待していた。

走りだして数箇月して思ったことは「痩せへんやないか」だった。

確かにいくらかは痩せる。だが、驚くほど痩せた記憶はない。それどころか暫く前までは上に書いたように往復 60 km 通勤する前より体重が増えたりもしていた。

冒頭に書いた「ということで思うのだった」は、ダイエットの成功は判断が難しいということだ。TV なんかだと一定期間で体重が減少していれば「成功」と判断するわけだから話は簡単だし、ある人が「xx kg 痩せた」と言っているのであれば、TV 出演時点で嘘でなければ TV としては「ダイエットに成功した」と言って、その時点で嘘はない。

だが、人は TV に出ているときだけ人でいるというわけではなく、それ以後も人として生活しているわけだ。そうすると何かの拍子に体重が増加したり、あるいはまた減少したりする。よほど強迫神経症的な体重維持をしているような人でない限り、一年で見れば最低 3 kg くらいの増減は普通ではないかと個人的なこれまでの記録を見る限りそう思う。

季節的なものがあったり、個人的に宴会が重なるなどの要因があったり、原因がわからないが、増えたり減ったりするわけだ。

諸行無常というほど大袈裟な話でなくても、バイオリズムでもメンタリズムでも何でもいいが、体はある程度長いスパンで周期変化しているような気がする。女性には男にはない周期変化があるので、それの影響もあるかもしれない。いずれにしても、増減 1 kg 以内で年中同じというような人はプロとして体重調整している人はともかく、病気か神経症だろうと推測している。

±2 kg くらいなら普通の増減範囲だし、暴飲暴食というほどでなくても宴会で飲み食いすれば翌日 1 kg 増加しているなどはごく普通の話である。そういう瞬発的な増加は継続しない限り 2日ほどで元に戻る。よくないのは宴会の時季になると続いてしまったりするので、戻らないうちに増加し、体が少しづつ体重を上の状態にしようとし始めることだ。こうなると短期に戻すのは困難になる。

+2 kg で驚いたりするのはよくない。しかし、そこが基準になってしまうと増加モードに入った可能性がある。それを防ぐ努力は必要だろう。

体重には定常状態はないということを心得ておく必要がある。1 kg 程度で一喜一憂するのは無駄だし、あまりダイエット上意味のある数字ではない。例えば 10年間 ±2 kg で遷移しているというのであれば、それはよく管理された体重だろう。だが定常状態ではないかもしれない。筋肉が減少して脂肪が増加するという内容までは体重だけでは判断しづらいが、体脂肪率も含めて同じような値を維持して初めて定常状態を維持・管理できているということになるような気がする。

かなり難しいと思うし、私はそこまで自分の体重を管理しきれないし、するつもりもない。

通学途中に車が突っ込む件に対する私案2012年08月16日 22時30分

「子供の列に吸い寄せられる車」という表題で少し前に通学中の子供の列に車が突っ込む件について書いた。

これが肝腎の対策を書いていない。少し前に前から書いていることを実施すればいくらかでも対策になるのではないかと気が付いたので、コメントにはせず新しく記事を立てることにした。

日本では狭い道路などで速度を落とさせるための対策としてブロック状の絵を路面に描いて心理的に道が狭いように見せ、それで速度を下げさせるという手法が使われている場所がある。
これの利点は安上がりということに尽きる。効果はどうかというと最早殆どないのではないだろうか。最初は効果を上げていたとしても、慣れてしまえば単なる絵でしかない。誰も驚かなくなる。速度が上がる。事故になったり人が撥ねられる。

結局道路に絵を描く費用を無駄にしただけで終ってしまっているのではないか。そもそも居眠りしているやつには心理的効果もへったくれもない。

これを本気で対策する気が警察と国土交通省にあるのであれば、絵で騙すなどということで終らせず、前から私が主張している路面の交叉点前などにバンプ、所謂瘤を作って物理的に速度を落とさせる対策が効果的であろう。外国ではあちこちで導入されていて、そこでは一時停止せんばかりに車は速度を落している。居眠りしているやつはその瘤で車が飛び跳ねるので厭でも目が醒めるだろう。

絵を描くより費用がかかるかもしれないが、吃驚するほどの費用ではないのではないか。

亀山でも的外れな対策をしているようなニュースをやっていたような記憶があるが、これの方がよほど効果的であろう。

これ以上通学中の児童・生徒らの列に車が突っ込むというニュースを見ないためにも、関係省庁には一日も早い検討と導入を進めて貰いたい。

LEAF は車か2012年06月09日 10時45分

日産の LEAF である。CM がおかしい。家庭の蓄電池として売っているように見えるが、あれは何だ。

深夜充電して昼間電源に使うなどと言っている。それは車としての機能を抛棄しているということか。電源に使用している間は当然ながら車としては使用できない。逆に車として使用するときには電源に使用できない。外出するときには家に電源は不要という考え方なのかもしれないが、全員外出するとも限らないだろう。さらに車として使用した後に丸二日分の電力を供給できるとも思えない。そんなことは百も承知だが、敢えてそれで売るということなのかもしれないが、それは車としてはどうなのか。何か間違っていないか。
本来は設置型の蓄電池を設置する方が車を電源にするよりいいに決っている。ただ、設置型蓄電池はまだ高価なようだし、そういうシステムもまだ普及しているとは言いがたい。そこに附け込んで LEAF を売ろうとしているのだろう。それにしても何度も言うが、それは車としてどうなのか。

前にも同じような話題で書いているが、どうも LEAF は車として売るつもりではないような印象があるので書いてみた。

ところで訂正がある。
デジタル機器のリチウムイオン電池と違って車載用のものは電極が違うらしいのでデジタル機器のバッテリのように 500回くらいの充電回数で寿命になることはないらしいことを最近知った。デジタル機器の 500回という寿命は小型化が要求される上に容量の要求も高いために設定されているらしい。車載用はデジタル機器用ほどには容量に関して厳しい要求はないので、電極の寿命が長いらしい。ということで交換時期はデジタル機器より長いようだ。ここで訂正しておく。

溢れるダンス2012年05月26日 17時30分

最近の CM は意味もなくダンスしている人らが出ているものが多い。単にダンスが流行っているというだけでダンスを突っ込んでいるようにしか見えないものもある。
ダンスが入っていてもまだ許せるようなシチュエイションなり商品ならいいが、マンションの CM にダンスというのは一体どういう脈絡があるというのか。

とはいうものの、脈絡はないにも拘らずうまくダンスを取り込んでいるものもある。結局は CM のプランと組立の巧拙で違和感があったりなかったりするのかもしれない。腕で見せているわけだ。

CM は見て貰って商品を購入して貰えばいいので、必然だろうが強引だろうが何でもいい。ダンス好きにはいい傾向かもしれないが、個人的には安易過ぎないかという気がしている。

眼鏡用ストラップ2012年05月18日 23時59分

正しくは何と呼ぶのか知らないが、眼鏡用のストラップを購入したのだった。

以前から欲しいとは思っていたが、きっかけがなかった。欲しい理由は老眼だ。眼鏡は近眼と乱視のものである。ところが近くを見るときには眼鏡をかけたままだと見にくいので外したい。Exception はサングラスは跳ね上げることができるが、近眼用レンズまではそうなっていない。なっていると便利なのだが、二重に跳ね上げられる眼鏡というのは見たことも聞いたこともない。

家の中や事務所だと単に外してどこかに置けばいいだけだが、自転車を掃除していたり電車に乗っているときなんかだと、外した眼鏡をどうするかが問題になることがある。自転車に乗っているときとか掃除のときは置く場所がない。籠でもあれば抛り込むこともできるが、生憎そんなものがない場合が多いのでそうすることもできない。Rudy の調光レンズはハンマーで叩いても大丈夫と宣伝しているが(指で曲げられるくらい柔らかいので事故などでも眼を怪我する可能性が少ない)、すぐに瑕がいくので迂闊なところに置けない。サドルにひっかけていたりして落ちただけで瑕が入ったりすることがある。電車のときは持っていればいいだけまだましである。ところが持っていなければならないという不便さが付き纏う。電車のときは寒い季節だとシャツの首のところにひっかけることもできなくはないが、これはこれで腰を曲げたりすると落ちそうになったりしていつでも使えるわけでもない。
そこで思いついたのがストラップだ。これだと片手が塞がることもないし、置き場所に悩まず首からぶら下げていればいい。

先週ある日、たまたま早く帰ったときに Exception を購入した店の前を通ったら開いていたので、訊いてみた。スポーツ用というので出してくれたのがつるの先端に嵌めるように取り付けるものだった。900円だというのでそれに決めた。

ところが使ってみると、ヘルメットを被る自転車乗りにはよくないのだった。というのもストラップとヘルメットのストラップが干渉して鬱陶しいこと甚だしい。それどころか眼鏡の着脱もかなり面倒である。確かに一般のスポーツなんかだとストラップの長さを調節して眼鏡が頭に固定されるようにしておけば激しい運動でも眼鏡が飛んで行ったりずれたりする心配は少ないだろう。
Exception はもともとしっかりホールドされるようになっているので、ちょっとやそっとの衝撃で眼鏡が飛んでいく心配はあまりなく、眼鏡を固定する機能は必要ない。それに耳の後ろからストラップが出るのは、ヘルメットばかりか電車のときでもイヤフォンを使用する際に厄介である。普通の眼鏡ならまだいいかもしれないが、Rudy の眼鏡はホールドされるようにつるが普通の眼鏡より幾分内側に湾曲している。このために後ろからストラップが伸びるスポーツタイプだと普段の着脱時ですら面倒だ。

せっかく試してみたが駄目だった。このまま止めるのもどうかという気がしたので、ウェブで探してみた。チェーンタイプは錆の心配もあるため駄目だ。そうでないものを探したら意外に安かったので購入してみた。これはチェーンタイプなどよくある、つるの中ほどに装着して使用する。これのいい点は耳の前からストラップを垂らすことができることだ。まだヘルメットと同時に使用したことはないが、前からストラップが出るので干渉しにくいと思われる。少なくともヘルメットしたままで眼鏡の着脱はできそうだ。
電車でイヤフォンを使用するときでもイヤフォンのケーブルと干渉しにくい。しないわけではなく、眼鏡をぶら下げるときには注意しないと眼鏡とイヤフォンのケーブルが縺れることがある。それでもスポーツタイプと比較するとかなり改善できた。スポーツタイプはどうもヘルメットを装着せず、スポーツ用サングラスを使用しない場合に効果的なようだが、スポーツ用サングラスとヘルメットを使用する場合には逆に使い勝手が頗るよくない。

ストラップがあると邪魔になることもあるので便利なのかどうか複雑なところではある。ただ、眼鏡の処置に困っていた場面ではそれでも便利にはなった。
どうやら次こそ Bluetooth のヘッドホンになりそうな按配である。