喫食禁止2009年08月02日 11時15分

最近ことばの乱れを指摘している人や記事などが減ってきているような気がする。単にそういうメディアを目にしていないだけという可能性もある。
諦めているのか、慣れてしまったのか。

ことばが変化するものだということも言われる。古文を習っていれば誰でもわかる。同じ日本語とはとうてい思えないようなことばが日本語として使われていたわけだ。もちろん日本だけのことではない。ギリシャ語でも英語でも中国語でもそうだ。
どうも日本人は漢文を習うからか、あれが中国語というように思っている人が多いような気がする。確かに中国語ではあってタミール語ではない。しかし、国語の教科書に載っている漢文は日本語の古文みたいなものであって現代中国語ではない。

話が逸れた。ことばの変化と乱れはどう違うのだろうか。乱れが変化になっていく場合もあるだろうし、乱れと呼べない変化もあるだろう。個人的な意見の相違で「乱れ」になったり「変化」になったりすることもあるかもしれない。

一番乱れているのは敬語というのは誰もが考えていることだろう。乱れているというより、知識がないから混乱しているというのがより正しい状況ではないか。なぜ知識がないかというと上下関係が崩壊しているからだ。文化の崩壊が言語の崩壊に繋がっている。言語は文化だから当然の成り行きである。

そう考えると乱れているのであれば、ことばを取り巻く状況が乱れているということができるだろう。

ここで表題の話になる。しばらく前から勤務先でこんな掲示が見られるようになった。続けて「マナーの面で食事の喫食は禁止しております。」と書かれている。どうも言っていることが二重に腑に落ちない。
まずことばが間違っている。「喫」も「食」も動詞だ。「食の文化」などというので名詞という人もいるだろうが、「食事」ということばが「食べること」であるように本来動詞として成立している文字と考えるのが筋というものだろう。「喫茶」という単語があるが、これは「茶を喫する」わけで、「茶する」を「喫する」ではない。「喫」という漢字は「食べる」「飲む」という意味で、明らかに動詞だ。大体「きっしょく」など入力しても漢字に変換してくれないし、辞書を見てもそんな単語は載っていない。つまり現在日本語として認識されていない単語である。それをわざわざ入力して掲示しているのだから「私は馬鹿です」と掲示しているのに似て滑稽ですらある。辞書に載っている単語を使うのであれば「喫飯」でいい。IME は変換してくれないが、辞書には「きっぱん」で載っている。動詞を主語にしている時点であり得ない話だが、ことばという面だけでもいろいろ破綻している。大人がこんな具合だから、子供のことばが乱れるわけだ。

さて、勤務時間中に職場で食事をしていてマナー違反を拘泥するならまだしも、休憩時間中に職場で食事をすることはマナー違反なのだろうか(この勤務先では職場での食事を禁止している)。百歩譲って職場は駄目だとしても休憩場所で昼休みに食事をすることをマナー違反と言われるのはどうだ。天気のいい日に公園のベンチで弁当を広げて食事するというオフィス街の人もいるようだし、そういうところで食事することがマナー違反であるという認識は世間にない。職場で歩きながらものを食べるというのは明らかにマナー違反と考えてもいいだろう。しかし休憩場所で椅子に腰掛けてものを食べることがマナー違反というのはどう考えても納得のいく説明ではない。
勤務先には大きい食堂があるのでそこで食べろと言っている。それはわかる。休憩所で食事をするなというのは、食事をする人間で溢れると休憩しようとしている人の休憩する場所がなくなるという意味で困りますというのなら納得しがたい部分もあるが、配慮せよというのならわからないでもない。これを掲示している人は衛生上好ましくないということが言いたいのかもしれないが、それなら「マナー」などと書かずに「衛生上問題があるので食堂に行け」と書けば十分だし、それなら誰もが納得するだろう。それを十把一絡げにして「マナー」としてしまうのは言語感覚としても問題だし、単なる横着ではないか。

衛生上というのは説明しておかなければならないかもしれない。掲示している側が直接意図しているのかどうかわからないが、掲示している近くに食堂がある。数百人は一度に入れる比較的大きな食堂だ。扱う食材や残飯の量も相当なものだと思うが、排水などもかなりなものだと思う。だからなのだろう、ゴキブリも驚くほどいるようだ。というのも、夜その周辺を歩いているとかなりのゴキブリと遭遇する。あるときなどは十匹以上、路上を這い回っていた。うっかりしていると踏んでしまいそうになる。一匹が走っているくらいなら他所でも見たことがあるが、これだけの数のゴキブリが徘徊しているのを見たことはここ以外ではない。ただ、衛生上問題があるからといって食堂を推奨するとはいっても食堂がゴキブリの巣窟なら、衛生上の問題を解決するという意味でも破綻してはいないだろうか。

いずれにしても大した問題ではないのだが、こんなおかしな掲示を毎日毎日見せられていると突っ込みたくもなるというものだ。

マイナス票2009年08月07日 16時45分

まだ一箇月近くもあろうというのに選挙、選挙と煩い。周知の通り衆議院の選挙である。
去年から言われ続けているので、「一箇月くらい」どうということはないかというとそんなことはない。私は日本の選挙やり方に疑問を持っている。
まず、とにかく喧しい。一番無神経なのは共産党だ。元日から「日本共産党です」などとがなりたてて、十分騒音公害だ。ああいう連中に公害問題を論じてもらいたくはないと思っている。もう少しスマートにアピールできないものか。

ただでさえこの時季は蝉が喧しいのに、それに輪をかけるように街宣車が走り回ると暑さ倍増だ。いくら冷夏とはいえ堪ったものではない。
喧しいのは共産党だけではない。そもそも街宣車でわーわー言ってどれだけ得票があるのだろうか。専業主婦などは大抵家にいるので、何度も何度も聞かされた日には「あいつにだけは絶対入れてやらない」と心に誓う人も多いかもしれない。困るのはシフト勤務の人も同様だ。寝ようと思っていると増幅された音声が近づいてくる。彼らも大切な有権者ということが理解できないのだろうか。
選挙区内を宣伝して回るというのは理にかなっているようで、そうとも言えない。平日の昼間に街宣車で回っても勤め人は選挙区内にいないことが多いし、逆に平日昼間はまったく自分とは縁のない選挙区の立候補者または立候補予定者の宣伝を聞くことになる。二酸化炭素を排出しまくって結局無駄足だ。夜は迷惑だから街宣活動が禁止されていて、残念ながら活動できない。結局喧しいことは国もわかっていて認めているわけだ。そろそろ新しい方法を考えたらどうか。
煩い割に公約がわからなかったりする。非効率も甚だしい。

街宣活動について書いてしまったが、今回のテーマは選挙運動ではない。
日本に限らず、投票というのは入れたい人に一票を投じるというしくみが主流のようだ。選挙管理委員会などは「投票に行きましょう」と言うが、こうも入れたい人物がいないと投票に行こうという人が減るのも無理はない。投票率が下がり続けているのは投票しようという気にさせられる人がいないことも一因があるのではないだろうか。
そこで、こうしてはどうだろう。自分の票をある人に投票するという従来の方法でもいいが、そうでない場合、「あの人にだけは当選して欲しくない」という人にマイナス一票を投票するという方法を選択できるようにするのだ。当選して欲しくない人ばかりということも考えられるが、そこは一票だから、一人に絞らなければならない。
「あの人に当選して欲しい」という人はいないが「あの人にだけは当選して欲しくない」という人ならいるという有権者も多いのではないか。それも有権者の意思表示である。全員が「あいつに当選させるな」という票を投じれば、開票結果がすべてマイナスになることも考えられよう。その場合は、一番マイナスの少ない人から当選させるしかないだろうし、当選した人も得票がマイナスであれば「自分の主張が認められた」などといけしゃあしゃあと言えなくなるので、心して政治活動に励むかもしれない。

そういうしくみにしていいことばかりがあるとは言えないだろう。一番目立たない候補者が漁夫の利を得る可能性は十分考えられる。今までなら供託金没収されてばかりいた候補者が予期せず当選してしまうというようなことも考えられる。だが、任期内に成果を出せなければ、結局「あいつに当選させるな」ということになるので次の選挙では落されてしまうだろうし、前回落選した他の候補者もマイナス票を入れられない努力をするだろう。
こうなると票読みは難しくなる。今まで投票しなかった人も「あいつだけは絶対当選させたくない」という動機があれば投票に行くだろう。逆浮動票なるものが大量に投ぜられることになるわけだ。地盤がある候補者でもこうなると何をどう対応すればマイナス票が防げるかわからない。組織票で読めていた選挙戦が一挙に混迷の度合いを深める。開票数分で当確などということもなくなるかもしれない。0票近辺の攻防だってあり得る話だ。

あまり好ましくないしくみのような気がしなくもないが、積極的に投票しようという動機付けのある候補者がいないのであれば、民意を問うにはマイナス票という考え方も必要かもしれない。
今回は自民か民主かという話になりがちだが、自民も民主も駄目だと思っている人もいるだろう。かといってそれ以外の政党や候補者に投票したところで、政治が変化するとは思えないのも事実である。であれば積極的に「あいつには当選させたくない」という意思を明確にできるしくみがあれば有権者の意思を明確にできるという意味で政治を変化させることができるかもしれない。

一度はやってみる価値があると思っている。そういう選挙のしくみを主張する候補者がいれば、それだけでその候補者に投票してもいい。

訴状が届いておらず、コメントできない2009年08月15日 15時15分

新聞の記事を読んでいると訴えられた企業などが表題のようなコメントをしていることが多い。本当に届いていないのかもわからないので、それ自体を非難するつもりはないが、一番いい加減なのはメディアだろうと思ってしまうのは私だけだろうか。

ニュースは鮮度が命という側面があるのは理解している。しかしだからといって新しい事象だけを刹那的に追いかけているだけというのもどうかという気がするし、鮮度だけが命でもない。継続的に追いかける必要のある事象だって存在するし、そういうことを地道に報道してこそのマスコミではないのか。そういう意味で新聞や TV というメディアは事象を点でしか扱わない。事象の開始点、展開点、裁判の開始と判決、とまるで起承転結のとっかかりだけ報道していればいいというような印象だ。
稀に大事件や話題になりやすいものについてはいつまでも微に入り細を穿つくらい執拗に、それこそ「そんなことはどうでもいい」と言いたくなるようなことまで報道していたりする。その癖上記のようなコメントはそのままにして放置している。どうせなら訴状が届いてからのコメントくらい取って報道したらどうかと言いたいが、最近のマスコミはそういう面倒なこと(そんなに面倒とも思えないが)はやらないらしい。どうせなら新聞は「訴状コーナー」でも設けて、訴状が届いたことを確認してからコメントを取り、それを載せるコーナーを設けたらどうかとすら思う。
でもまあ訴状を受け取った企業などは大抵、メディアのスポンサーでもあるだろうから読者には「コメントできない」というコメントを取ったことで「うちは一応コメントを取るところまでは仕事しましたよ」というポーズを見せて、スポンサーである企業には「一応社会の公器なのでそこまでは取材させてくださいよ」という言い訳をしているに過ぎないのだろう。
ただ、考えてみれば実際のコメントが取れたからいいかというと、それは単なるコメントだし、仮に取れたとしてもどのみち建前だけのコメントでしかないのは明らかだ。それよりもマスコミとしての存在意義は、その事象に関するもっと本質的な問題を掘り下げることであると思うのだが、それは本当に面倒な仕事だから届いた訴状を受け取った後のコメントも取らない最近のマスコミはやらないだろう。

ブラジルで殺人をやらしておいて現場に取材に行くという事件が物議を醸している。殺人をやらせでやっているという話は聞いたことはないにしても、やらせ問題は日本でもときおり問題になっているから、日本のメディアも本質的には大して違いはないのかもしれない。偉そうな大義名分だけは掲げているが、その実は害毒を撒き散らしつつあるのがマスコミではないかと最近思い始めている。

花田少年史 幽霊と秘密のトンネル2009年08月17日 22時40分

数日前、TV で「花田少年史 幽霊と秘密のトンネル」という映画をやっていた。私自身は見る気がなかったが、嫁が見る気があるのかないのか、そのままにしていたので見るわけでもなく TV の横でウェブを見ていた。

映画をちらちら見た感じでは、私には映画自体はどんなもんだかというような作品だった。ところが終盤になって音楽のできがいいことに気が付いた(それまでは音楽も聴いていなかった)。すぐさま作曲家を調べてみると岩代太郎という人だった。「聞いたことないな」などと思ってさらに調べていくとアナウンサーの松本志のぶの旦那だとわかった。島田紳助に「がきデカ」とか言われているのはこの人かと思ったが、音楽を意識して聴いたのは初めてかもしれない。

なかなか格調高い音楽だった。映画がいまいちなので音楽が浮いてしまいそうなのだが、絶妙な加減の音楽が絶妙な具合で鳴らされているので音楽が映画を救っているという、まるでハリウッド映画でのジェリー・ゴールドスミスの評判のような音楽だ。「ちょっとこの映画には勿体なくないか」などと思ってしまった。レッド・クリフもこの人の作曲らしいので、サウンドトラック版を入手してみようかという気になっている。

災害用トイレ評論家2009年08月18日 23時10分

災害用トイレと保存用水タンク(あるいは長期保存できる飲用水)を数日前から物色している。
一応、僅かの飲用水と非常食、防災用品は前に書いたように用意してあるが、一番の問題はトイレらしい。阪神大震災でも新潟でも便所問題は深刻だったらしい。昔のヨーロッパは二階の窓から便器の内容をぶちまけていたらしいので、そういう時代のそういう国であれば大地震でもさほど便所に関して深刻な問題にはならなかっただろうが、現代日本は異常な清潔さに馴れてしまったことが祟って、たとえ一日でもそんな状況では暮していけない社会になってしまっている。

大地震で断水だけでも復旧に何日かかるかわからないし、水道管や下水管が破裂したりすると月単位で復旧に時間がかかるようだ。さすがにそんなに備蓄できないが一週間分程度は確保しておく必要があるかもしれない。

で、探しているわけだ。商品そのものは各社いろいろ出していて結構種類があるが、どれがいいのかわからないので困っている。どこかの通販サイトのレビューを見たが「とりあえず用意できたので安心」とかいう話ばかりで誰も使っていない。使用感がまったくない。「使わないことを願っている」というレビューもあって、商品のレビューとしては珍しい。確かに使わないで済めばそれに越したことはないのはわかっているが、嬉しがりでもいいので誰か使ってみた人はいないものか。ただ、同じ製品だけレビューされても他の製品がどうかというのがわからないので、ありがたいのかどうかよくわからない。

うちにお金と保管スペースに余裕があればあれこれ買って試してみれば世界初の災害トイレ評論家みたいなものになれるかもしれないが、別にそんなものの評論家になりたいわけではないのだった。誰か災害トイレ評論家になりませんか。当分の間は世界的権威として君臨することができるかもしれません。

温度ロガーの楽しみ2009年08月24日 23時00分

ということで温度ロガーを購入して一箇月近くになる。携帯用の温度計も同じ日に届いた。

購入した温度ロガーは T AND D のおんどとり TR-73U である。温度と湿度、気圧が測定できる。設置場所は玄関ホールにした。玄関にした理由は屋内で一番屋外に近い環境と思われるからだ。
どの程度のサンプリング間隔にすればいいのかわからないので、最初は 15分ごとに測定するようにして一日計測してみた。データを見ると 15分間隔ではそれほど大きく変動している様子はなかったので、20分間隔に設定しなおして測定し続けている。

何となくわかったことは以下の通り。

・玄関といえども屋内なので、温度変動は屋外より小さく、外気温の変動より遅れて変化している。さらにこの時季は温度上昇は早いが、下降は緩やかである。期間最高 33.6度、最低 25.5度
・相対湿度は温度と逆の動きをする(これは気象観測装置のデータを収集して知っていた)。最高 86%、最低 33%
・気圧も湿度と同様の傾向で増減するが、それ以上に高気圧・低気圧の影響を受けている。一日の一番暑い時間帯は熱せられた空気が上昇するからか気圧が低くなるようだ。それが積乱雲を形成して夕立になるというのが従来の夏の一日だったのだろう。この辺では最近はあまり夕立が降らない。最高 1014.3 hPa、最低 999.1 hPa

湿度も太平洋高気圧だか大陸性高気圧だかの影響を受けて空気が入れ替わるとベースの湿度が変動しているが、その変化は一日の変動と比較すると幾分なだらかなようだ。
温度の変動巾が小さいのはその通りで、最高気温が 35度を超えるような日があっても 34度に満たないし、最低気温にしても今日などはかなり快適にも拘らず、それほど低くはない。
この一箇月ほどの気圧変動に関して言えば 9日周期くらいで波打っている。

一箇月のデータをグラフで眺めていると、気象データについてわかったような気になってしまうが、実はまだ一箇月分のデータしかない。

盆の頃から虫の音に変化が現れている。夜は秋の虫らしい鳴き声が聞こえるし、昼間はツクツクボウシが鳴いている。立秋とともに虫も季節の変化を感じているようだ。昔の人は生物同様敏感だったのだろうが現代人は文明の利器の頼りすぎで鈍感になってしまったような気がする。

屋外の気象データは前にも書いたように近くに設置されている国道の気象観測データをウェブで収集している。が、一週間でなくなってしまうので、気温と湿度だけでも駐車場に安いロガーをぶら下げて測定したい気もしている。それ以外にも各階の室内温度(場合によっては湿度)も測定したい。夏場は 2階と 3階が暑いし、逆に冬場は 1階が寒い。3階が夏に暑いのは理解できるが 2階も結構暑い。台所の熱が室内に籠って逃げないからのような気もする。壁の中で水を循環させると夏も冬も快適になるような気がするが、そんなシステムいくらかかることか。

夏の昼間に 3階のベランダで水道を使うとしばらく水が熱い。十分湯である。これを熱源に使わない手はないと思うが、設備するだけの余裕もない。
太陽光発電に使うシリコンは温度が上昇すると発電効率が落ちる。そこで発電パネルの裏側に水を通してパネルの温度を下げ、その水を湯として利用できれば発電効率も上るし、湯も得られるので一石二鳥だと思うが、そういうシステムはあまり聞かない。しくみが複雑になって高価になったり、メンテナンスしにくくなるのか故障が増えるのかはわからない。

携帯用の温度計は自宅で自分のいる場所の温度を知るのに重宝している。一応、外出するときも持って出るようにしているが、あまり見ることはない。先日奈良方面に出かけたときに鞄にぶら提げて気がついたときに見たら 36度以上あった。
職場でも机の上に置いているが、大体気温は 25度から 26度である。クールビズだの炭酸ガス排出抑制だので 28度厳守と言っていた筈ではなかったか。28度なんかに設定されると暑くて堪らないので、今の温度設定は本当のところありがたいが、もう 1度高くても支障はないと思う。この一箇月ほど上記の温度から外れたことがあまりないようなので、さぞ電力を消費して炭酸ガスを排出していることだろう。

インフルエンザの追討ち2009年08月28日 22時30分

新型インフルエンザが流行し始めたという報道が賑やかだ。選挙の方がもっと賑やかだが、今日はまあいい。

今年の春、鳥由来インフルエンザの人感染を心配していた頃、突如(でもないのかもしれないが)豚由来のインフルエンザの感染が報告され、見る間に世界各地に拡がっていったのは周知の通りである。
日本も水際で食い止めるということで厳戒態勢であった割には、あっさりと国内でも感染者が出て報道がパニックになり、マスクがなくなった。
暑くなってきて落ち着いたかと思っていたら、またぞろ感染者が発生するようになり、現在に至っている。その辺の話はここで書くまでもないことだ。
心配しなければならないのは間違いないし、感染しないように注意する必要もある。

ここで私が心配するのは、インフルエンザの脅威は豚由来のインフルエンザだけではないということだ。毎年流行している従来型のインフルエンザもそうだが、豚由来が流行すれば鳥由来がしばらく休むという保証はどこにもない。それにも拘らず鳥由来のインフルエンザのことは誰もが忘れてしまっているらしい。パニックを恐れて敢えて騒がないようにしているだけということも考えられるが、いずれにしても鳥由来のインフルエンザの心配が消えたわけではないことだけは間違いない。大体今年の春までは「鳥」「鳥」「鳥」「鳥」「いつ鳥インフルエンザが人から人に感染するようになってもおかしくない」と言っていたのではなかったか。国のインフルエンザ対策も鳥由来の強毒性を想定していたために、騒ぎが大きくなったということもあったことは忘れていないことと思う。

「泣きっ面に蜂」ということばがある。豚由来の新型インフルエンザが猛威を振るい始めた頃に鳥由来の新型インフルエンザが流行を始めたら世界はパニックになるかもしれない。医療機関はインフルエンザ患者で機能停止するだろうし、社会機能が停止してしまう可能性だってないとは言えない。

さらに不穏なことに東南海地震もいつ発生してもおかしくない状態だという。心配しすぎだという気がしないでもないが、上にも書いたように「泣きっ面に蜂」ということばもあるので、インフルエンザで泣いているところにとんでもない地震が発生しないとは誰にも言えない。そんな災難が同時に来る確率なんかないに等しいと思いたいが、地震は「いつ来てもおかしくない」と言われているし、豚由来インフルエンザについては大流行が保証されたかのように報道されている。

そんなことを考えていたら防災の日が目前に迫っているからというわけでもないが、いっそう備えをしておかなければという気になってしまった。とりあえずトイレから始めることにしよう(まだ選定中なのだった)。

忍び寄る老眼2009年08月30日 19時00分

この一箇月ほどでこれまで以上に近くも遠くも見にくくなったような気がしている。いつだったか、眼科で老眼鏡を処方してもらおうとしたら「見えてますよ」とあしらわれてしまって結局処方してもらうことなく終ってしまった。その頃から小さいものが見にくかったが、最近は小さいわけでもない手近のものが見づらくなった。

遠いところはいつもの眼鏡をかければいいが、それでも何だかこれまでのようでない。さらにこの半年ほどは職場では殆ど眼鏡をかけないでいて不都合を感じることはなかった。それが遠いところは眼鏡が必要で、近いところは裸眼では見づらいので困りつつある。調子のよくないときは、どの距離でもいい感じで見えることがなく、何かすっきりしない。

ホームセンターにあるものを買いに行ったときにたまたま老眼鏡が並べてあった。一番緩い度のものをかけてみた。よく見える。流石に自分の視力に合せているわけではないのでぴしっと見えるわけではないが、手元を裸眼で見るときより楽に見え、目の奥の違和感がない。

老眼鏡を用意することには多少抵抗はあるが、毛嫌いするほどのものではないと思っている。より大きな問題はそこにはなく、そうなると日常的に持ち歩く眼鏡が増えることが困るわけだ。普段は自転車で移動しているので、自転車用のサングラスにクリップオンで眼鏡を付けて度を入れている。家や職場で使うのはサングラスというわけにもいかないので年末に購入した普通の眼鏡を使っている。それに老眼鏡を追加するとなるとケースが一つ余計に必要になり、眼鏡を二本持ち歩くことになる。普段用の眼鏡のレンズを入れ替えて遠近両用にするということも考えられるが、まだ半年ばかりでそういうことをするのも勿体ないような気がする。そればかりか、そこからさらに進行しないかということだ。まだ老眼初心者でどこまで進行するのかわからないし、安定しているのか悪くなっているのかもわからない。体調で視力の調子が変化することも考えられる。そんな時期に新しいレンズなり眼鏡を作っても暫くしたら度が合わなくなってくる可能性もあり、それはそれで出費も嵩むし、無駄でもある。

自宅は虫眼鏡で当分凌ぐかという気になるが、問題は職場など外出先だ。いちいち虫眼鏡を持参するのも面倒だし、職場で基板を見るときなどは不審に思われることはないだろうが、大体不審に思われるだろう。それよりも自分が一番面倒に違いない。
さて、どうするか。